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ルビ付きテキスト

第9話 愚禿親鸞・西田幾多郎(新字新仮名)


伏字ふせじ漢字かんじ

いちからろく小1しょういちから小6しょうろくなな中学ちゅうがくおぼえる常用じょうよう漢字かんじです。
小1,❶: 二 , 字
小2,❷: 教 , 知 , 親 , 角
小3,❸: 他 , 真
小4,❹: 徳
小6,❻: 宗

学習がくしゅうコンテンツ 

仮名がな漢字『かんじ』(『かんじ』)のよう括弧かっこいた漢字かんじ原書げんしょ仮名がないている漢字かんじです。


作品さくひんめい愚禿ぐとく親鸞しんらん
著者ちょしゃめい西田にしだ幾多郎きたろう

 ❸❻しんしゅういえうまれ、はは❸❻しんしゅう信者しんじゃであるに『かかわ』らず、自身じしん❸❻しんしゅう信者しんじゃでもなければ、また❸❻しんしゅうについておおるものでもない。ただ上人『しょうにん』在世ざいせいときみずか愚禿『ぐとく』しょうしこの❶❶にじおもきをかれたとはなしから、ところもっすと、愚禿ぐとく❶❶にじ『よ』上人しょうにん為人『ひととなり』あらわすとともに、❸❻しんしゅう❷義きょうぎ標榜ひょうぼうし、かね❻❷しゅうきょうそのもの本質ほんしつしめすものではなかろうか。人間にんげんには智者ちしゃもあり、愚者ぐしゃもあり、とくしゃもあり、不❹ふとくしゃもある。しかしいかにだいなるとも人間にんげん人間にんげんであり、人間にんげんとく人間にんげんとくである。三❷形さんかっけいへんはいかにながくともべてのかく直❷ちょっかくひとしというにはなんかわりもなかろう。ただ翻身『ほんしん』一回いちかい『この』『この』とくてたところに、あらたあらたとく『そな』え、あらた生命いのちはいることができるのである。これが❻❷しゅうきょう❸髄しんずいである。❻❷しゅうきょうことのいわゆる学問がくもん❷識ちしきなん交渉こうしょうもない。コペルニカスの地動ちどうせつ❸理しんりであろうが、トレミーの天動説てんどうせつ❸理しんりであろうが、そういうことは何方『どちら』でもよい。❹行とっこうてんからても、❻❷しゅうきょうみずか❹行とっこうともなるものであろうが、またかならずしもこの両者りょうしゃ同一視どういつしすることはできぬ。むかし融禅師『ゆうぜんじ』がまだ牛頭山『ごずさん』きたいわお『す』んでいたときには、色々いろいろとりはな『ふく』んで供養『くよう』したが、四祖大師『しそだいし』さんじてからとりはなふくんでなくなったとはなしいたことがある。❻❷しゅうきょうそのものり、❻❷しゅうきょうとくとくそのものもちいるのである。三❷形さんかくけい幾何学的きかがくてき性質せいしつきわめるには紙上しじょういちしょう三❷形さんかくけい沢山たくさんであるように、心霊しんれいじょう事実じじつたいしては英雄えいゆう豪傑ごうけつ匹夫匹婦『ひっぷひっぷ』同一どういつである。ただることはできず、やまにあるものやま全体ぜんたいることはできぬ。『この』『この』とくあいだあたま出頭しゅっとうぼっするもの『この』『この』とくることはできぬ。何人なんびとであっても赤裸々せきららたる自己じこ本体ほんたいかえり、ひとたび懸崖『けんがい』『さっ』して絶後ぜつごよみがえったものでなければこれをることはできぬ、すなわふか愚禿ぐとく愚禿ぐとくたる所以『ゆえん』あじわたもののみこれをることができるのである。上人しょうにん愚禿ぐとくはかくのごと意味いみ愚禿ぐとくではなかろうか。❸力たりきといわず、自力じりきといわず、一切いっさい❻❷しゅうきょうはこの愚禿ぐとく❶❶にじあじわうにほかならぬのである。
 しかしみぎのようにいえば、愚禿ぐとく❶❶にじひと❸❻しんしゅうかぎったわけでもないようであるが、❸❻しんしゅうとくにこの方面ほうめん着目ちゃくもくした❻❷しゅうきょうである、愚人ぐじん悪人あくにん正因『しょういん』とした❻❷しゅうきょうである。おなじくあいしゅとした❸力たりきしゅうであっても、猶太『ユダヤ』きょうから基督『キリスト』きょうはなお、正義せいぎ観念かんねんつよく、いくらかつみむるとおもむきがあるが、❸❻しんしゅうはこれとちが絶対的ぜったいてきあい絶対的ぜったいてき❸力たりき❻❷しゅうきょうである。れい放蕩ほうとう息子むすこむかえたちちのように、いかなる愚人ぐじん、いかなる罪人ざいにんたいしても弥陀『みだ』はただなんじのためにわれ粉骨砕身ふんこつさいしんせりといって、これをむかえられるのが❸❻しんしゅう本旨ほんしである。『歎異抄たんにしょう』のなか上人しょうにんが「弥陀みだ五劫思惟『ごこうしゆい』ねがいをよくよくあんずればひとへに❷鸞しんらん一人ひとりがためなりけり」といわれたのがその極意ごくいしめしたものであろう。おわりに❻祖しゅうそそのひと人格じんかくについてても、かの日蓮にちれん上人しょうにん意気いき冲天『ちゅうてん』❸❻たしゅう罵倒ばとうし、北条ほうじょうもくして、小島こじまあるじらが云々うんぬん壮語そうごせしにくらべて、吉水よしみず一門いちもん奇禍きか『つらな』北国きたぐにすみながされながら、もし『われ』配所はいしょおもむかずんばなにによりてか辺鄙へんぴぐんるいばかせんといって、ほうひとなかった❷鸞しんらん上人しょうにん人格じんかくすこぶおもむきにしたものといわねばならぬ。かぜ『さけ』くもはしり、怒濤澎湃『どとうほうはい』あいだちて、うごかざること『いわお』ごと日蓮にちれん上人しょうにん意気いきは、そうなることはそうであるが、煙波えんぱ渺茫『びょうぼう』かぜ『しずか』なみうごかざる❷鸞しんらん上人しょうにん胸懐きょうかいはまたなんとなく奥床『おくゆか』しいではないか。
 (『❻祖しゅうそかん大谷おおや学士がくしかい発行はっこう明治めいじ四十四よんじゅうよねん四月しがつだい一巻いっかん

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作品さくひんめい愚禿ぐとく親鸞しんらん
著者ちょしゃめい西田にしだ幾多郎きたろう

 真宗しんしゅういえうまれ、はは真宗しんしゅう信者しんじゃであるに『かかわ』らず、自身じしん真宗しんしゅう信者しんじゃでもなければ、また真宗しんしゅうについておおるものでもない。ただ上人『しょうにん』在世ざいせいときみずか愚禿『ぐとく』しょうしこの二字にじおもきをかれたとはなしから、ところもっすと、愚禿ぐとく二字にじ『よ』上人しょうにん為人『ひととなり』あらわすとともに、真宗しんしゅう教義きょうぎ標榜ひょうぼうし、かね宗教しゅうきょうそのもの本質ほんしつしめすものではなかろうか。人間にんげんには智者ちしゃもあり、愚者ぐしゃもあり、とくしゃもあり、不徳ふとくしゃもある。しかしいかにだいなるとも人間にんげん人間にんげんであり、人間にんげんとく人間にんげんとくである。三角形さんかっけいへんはいかにながくともべてのかく直角ちょっかくひとしというにはなんかわりもなかろう。ただ翻身『ほんしん』一回いちかい『この』『この』とくてたところに、あらたあらたとく『そな』え、あらた生命いのちはいることができるのである。これが宗教しゅうきょう真髄しんずいである。宗教しゅうきょうことのいわゆる学問がくもん知識ちしきなん交渉こうしょうもない。コペルニカスこぺるにかす地動ちどうせつ真理しんりであろうが、トレミーとれみー天動説てんどうせつ真理しんりであろうが、そういうことは何方『どちら』でもよい。徳行とっこうてんからても、宗教しゅうきょうみずか徳行とっこうともなるものであろうが、またかならずしもこの両者りょうしゃ同一視どういつしすることはできぬ。むかし融禅師『ゆうぜんじ』がまだ牛頭山『ごずさん』きたいわお『す』んでいたときには、色々いろいろとりはな『ふく』んで供養『くよう』したが、四祖大師『しそだいし』さんじてからとりはなふくんでなくなったとはなしいたことがある。宗教しゅうきょうそのものり、宗教しゅうきょうとくとくそのものもちいるのである。三角形さんかくけい幾何学的きかがくてき性質せいしつきわめるには紙上しじょういちしょう三角形さんかくけい沢山たくさんであるように、心霊しんれいじょう事実じじつたいしては英雄えいゆう豪傑ごうけつ匹夫匹婦『ひっぷひっぷ』同一どういつである。ただることはできず、やまにあるものやま全体ぜんたいることはできぬ。『この』『この』とくあいだあたま出頭しゅっとうぼっするもの『この』『この』とくることはできぬ。何人なんびとであっても赤裸々せきららたる自己じこ本体ほんたいかえり、ひとたび懸崖『けんがい』『さっ』して絶後ぜつごよみがえったものでなければこれをることはできぬ、すなわふか愚禿ぐとく愚禿ぐとくたる所以『ゆえん』あじわたもののみこれをることができるのである。上人しょうにん愚禿ぐとくはかくのごと意味いみ愚禿ぐとくではなかろうか。他力たりきといわず、自力じりきといわず、一切いっさい宗教しゅうきょうはこの愚禿ぐとく二字にじあじわうにほかならぬのである。
 しかしみぎのようにいえば、愚禿ぐとく二字にじひと真宗しんしゅうかぎったわけでもないようであるが、真宗しんしゅうとくにこの方面ほうめん着目ちゃくもくした宗教しゅうきょうである、愚人ぐじん悪人あくにん正因『しょういん』とした宗教しゅうきょうである。おなじくあいしゅとした他力たりきしゅうであっても、猶太『ユダヤ』きょうから基督『キリスト』きょうはなお、正義せいぎ観念かんねんつよく、いくらかつみむるとおもむきがあるが、真宗しんしゅうはこれとちが絶対的ぜったいてきあい絶対的ぜったいてき他力たりき宗教しゅうきょうである。れい放蕩ほうとう息子むすこむかえたちちのように、いかなる愚人ぐじん、いかなる罪人ざいにんたいしても弥陀『みだ』はただなんじのためにわれ粉骨砕身ふんこつさいしんせりといって、これをむかえられるのが真宗しんしゅう本旨ほんしである。『歎異抄たんにしょう』のなか上人しょうにんが「弥陀みだ五劫思惟『ごこうしゆい』ねがいをよくよくあんずればひとへに親鸞しんらん一人ひとりがためなりけり」といわれたのがその極意ごくいしめしたものであろう。おわりに宗祖しゅうそそのひと人格じんかくについてても、かの日蓮にちれん上人しょうにん意気いき冲天『ちゅうてん』他宗たしゅう罵倒ばとうし、北条ほうじょうもくして、小島こじまあるじらが云々うんぬん壮語そうごせしにくらべて、吉水よしみず一門いちもん奇禍きか『つらな』北国きたぐにすみながされながら、もし『われ』配所はいしょおもむかずんばなにによりてか辺鄙へんぴぐんるいばかせんといって、ほうひとなかった親鸞しんらん上人しょうにん人格じんかくすこぶおもむきにしたものといわねばならぬ。かぜ『さけ』くもはしり、怒濤澎湃『どとうほうはい』あいだちて、うごかざること『いわお』ごと日蓮にちれん上人しょうにん意気いきは、そうなることはそうであるが、煙波えんぱ渺茫『びょうぼう』かぜ『しずか』なみうごかざる親鸞しんらん上人しょうにん胸懐きょうかいはまたなんとなく奥床『おくゆか』しいではないか。
 (『宗祖しゅうそかん大谷おおや学士がくしかい発行はっこう明治めいじ四十四よんじゅうよねん四月しがつだい一巻いっかん

■ 原書情報(青空文庫) 図書カード:No.3503(新字新仮名) https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/card3503.html https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/3503_13512.html 底本:「西田幾多郎随筆集」岩波文庫、岩波書店    1996(平成8)年10月16日第1刷発行    1998(平成10)年9月16日第3刷発行 底本の親本:「西田幾多郎全集 第一巻」岩波書店    1987(昭和62)年11月 初出:「宗祖観」大谷学士会    1911(明治44)年4月 入力:アキトチ 校正:鈴木厚司
■ 漢字の説明( Explanation of kanji ) 

ニ・▲ジ・ふたふた
twoつー

ジ・㊥あざ・▲あざな
ideographいでぃあぐらーふ

キョウ・おしえる・おそわる
teachingてぃーちんぐ

チ・る・▲らせる
knowledgeなれっじwisdomうぃずだむ

シン・おやしたしい・したしむ・▲みずか
parentぺあれんと

カク・かどつの・▲すみ・▲くらべる
cornerこーなーantlerあんとらーangleあんぐる

タ・ほか
otherあざーelsewhereえるすうぇあ

シン・・▲まこと
trueとるぅーgenuineじぇにゅいんsincerityしんせりてぃ

トク
goodぐっど deedsでぃーどず

シュウ・㊥ソウ・▲むね
sectせくと
(付記,Note)
※ 最初の行は音訓読みを記載しています。カタカナは音読み、ひらがなルビは訓読みです。
※ ▲は常用外の読み方です。㊥は中学・㋙は高校で習う読み方です。漢検・漢字辞典の記載に準拠しています。
※ ▲ is a non-regular reading. ㊥ is the reading learned in junior high school and ㋙ is the reading learned in high school.
■ 漢字のリンク集/書き順&意味 , stroke order:Mojinavi , Another languages:Google , Bing
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7小3 ❸MojnaviGoogleBing
8小3 ❸MojnaviGoogleBing
9小4 ❹MojnaviGoogleBing
10小6 ❻MojnaviGoogleBing
★★★ 各小説投稿サイトへのリンク集(各投稿サイトでも公開しています) ★★★
Q:青空文庫って、何ですか?
A:1997年に始まったボランティア活動で、誰にでもアクセスできる自由な電子本を、共有可能なものとして図書館のようにインターネット上に集めようとしております。現在は、日本国内で著作権保護期間の満了した作品を中心に、ボランティアのみなさんの力によって電子化作業を進めています。青空文庫はそういった電子化活動のための、またその成果物をアーカイヴしておくための場でもあり、そこからコピーされた本の集成や活用事例もまた〈青空文庫〉と呼ばれることがあります。
Q: What is Aozora Bunko?
A: The volunteer activities, which began in 1997, the free e-book that can be accessed by anyone in, we are going to gather on the Internet like a library as a thing that can be shared. Currently, we are proceeding with digitization work with the help of volunteers, focusing on works whose copyright protection period has expired in Japan. Aozora Bunko is a place for such digitization activities and for archiving the deliverables, and the collection and use cases of books copied from it are also sometimes called “Aozora Bunko”.
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